空蝉日記帳

ひとりごと。

#9 やさしさ日記

友人のプロジェクトの手助けをすべく、いろいろな言葉を調べては解釈を考える、そんな一日だった。

 

それはそうと、昨日の日記を書いていて思い出したことがある。

昔、本当に昔。どこかで、「誰にでも優しい人間というのは、誰にでも冷たい人間だとも言える」というような内容の話を聞いたことがある。

小学生の頃から優しいだとか、そういう意味合いの評価をもらうことが多かった当時の僕にとっては、それは信じたくない話だった。

昨日のボランティアの話も含め、別に他人の役に立ちたいなんて大層な目標はなかったが、それでも自分を冷酷な人間だとは思ったことがなかった。

そう、自分は優しかった。誰かを非難することも、否定することもない。怒ることだってない。”優しい”人間だった。

 

しかし最近はその話に、妙に納得できてしまうようになった。

「誰にでも優しい」というのは、誰か・何かを特別扱いすることなく、全てに平等な態度で接するということ。

それはつまり、「特別大切にしたいものがない」ということだとも、言えるのではないかと考えた。

贔屓したいものが、優先したいものが特にない。誰にだって同じでいたい。

 

人間は、自分がより好感を持っている・親しいと思っている存在に近い発言や意思表示をするものだと思う。その理論は僕もよく分かる。

だが、片方だけの味方には、どうしてもなりたくない。常に中立の立場でいたい人間なんだと思う。

例えば、数えるほどの会話しかしたことのない同級生と、親友が言い争いをしていたとして。

双方がこちらに同意を求めてきた場合、普通は親友の味方をすると答える人間が多いんだろう。

ただ、僕はそれができない。片方だけを否定することが出来ない。両方肯定したいのだ。

優柔不断、とも言うのかもしれないが、どちらかだけの味方をすることがとにかく苦手だ。どちらかの味方をするくらいなら、新たな意見を提案することの方が良い。実際そうすることの方が、僕は多い。

つまるところ、誰の味方もしないのだ。

 

こういうことを誰かに報告することはナンセンスなのだろうが、今までボランティアや募金・人の相談に乗るなどの、いわゆる「良い行動」と呼ばれることは何度もしてきたつもりだ。

しかしそれは「優しさ」か?と聞かれると、それは否だと思う。

ボランティアは、昨日の通り。人のため何かのためというよりは、ただ自分が、少し変わった経験をしてみたかっただけ。

募金は、会計の後に財布を出してお釣りをしまう、という行動が面倒だから(おまけに金属の匂いが駄目で小銭を握っていたくないから)、そこにある箱に入れているだけ。

人の相談に乗るのは、人のそういう裏話を聞くのが、単純に好きだから。それだけ。

要は全部自分のためであって、人のための行動ではない。全ては怠惰と興味。人のため、と考えて行動したことはほぼない。

 

結論としては、優しいというよりも、他人にも自分にも甘いだけなんだと思う。

人から厳しいことを言われたくないから、甘やかされたいから、だから自分も人に向かって何かを制限したり、苦言を呈すことはない。

その行動は、その人のためとはいえないだろう。その人の成長にはつながらないし、間違った方向へと進めてしまう可能性だってある。

けれど、それはそれでどうでもいい。だって自分はその人の味方ではないから。

ただその人のあるがままを受け入れて、相槌を打っているだけ。

その人がその先でどうなろうが、僕には関係ないから。

 

こうやって内容を見返すと、あまりにも”優しい”なんて評価を受けていた人間だとは思えない。

だからこそ、冒頭のあの話に納得できてしまうようになったのだが。

 

”優しい”が何なのか、そろそろゲシュタルト崩壊しそうだ。

寝る時に考え込んでしまうことが多いテーマなので、寝る前にここにぶつけてみた。

こういう答えのないことを考え込む癖はどうにかならないものか。